9・11から二ヶ月のレポート 9・11―10・22 2001
9・11 祭りのまえ
台風が東京を直撃している。偏西風に乗り切れなかったためにのろのろと都心を進んでいる。昔から野分けの次の日はすっきりと晴れるそうだから明日に期待しよう。
ところでこれはまだTSUGE SITEのアップ前に記している。サイト作りがこれほど過酷なものだと予備知識を持っていなかったために今まさに台風の中だ。コンピューター・オペレーターの春日谷さんとともに不眠不休の日々である。彼との付き合いはもう十年になるだろうか。僕個人のヴィジュアルを作る上で重要かつ不可欠な人物である。彼は写真を撮り、それを自由に加工する。しかも自分の作家性ばかりでなく、僕の無理難題をオペレートする我慢強さがある。
昨日も朝から夜まで作業をした。すると帰りがけに、「そう言えば、今日僕、誕生日なんですよね・・・」と言った。こんなに長い付き合いなのに気が付かない僕も僕だが、最初に言ってくれよという気分になった。「アメリカン・プレジデント」という軽いコメディタッチの映画の中で、大統領政策担当補佐官役のマイケル・J・フォックスが、「そう言えば今夜はクリスマスだったんだね」とつぶやくセリフを思い出した。
副都心を映し出すニュースを見ながら、「ビルって倒れないんだなぁ」などと呑気なことを思ったりした。たしかに丸子橋あたりは水位が7メートルを越えて台風の猛威を感じさせたりもするが、なにか自分にとっては物足りないイメージである。災害がないに越したことことはないのは当然としても、「台風」イコール「屋根が吹っ飛ぶ」とか「家が流される」とか「土砂崩れ」とか、想像のスケールを越えたヴィジュアルを求めてしまう自分がある。さしずめ東京なら、お台場のFUJI・TV社屋の中空に浮かぶあの大きな銀の玉が落っこちたとか。あるいはあのアクアラインの長いトンネルが水没したとか。そんなことはありえないけれど、ありえないことが起こるのが自然の猛威というか。
きっと人の歴史はそんな風に自然を駆逐しながら科学を進化させてきたのだろうななどと感じられる。戦争が進化させたと言う人もいる。それもそう思う。いずれにしても「自然」と「人の本能」は、暴力的・破壊的という部分でも似ている。そのような極度に動的なサイドを、同時に存在する静的なサイドの力でバランスをとる。その均衡状態が平和・安定なのだろうし、それが破綻した場合に災害や戦争が起こる。
ますます世の中は安全になって行く。とてもありがたい。けれど一体行き場をなくしたエネルギーはどこに消えるのだろう。有名な法則があるからそれは消えたわけじゃないだろう。姿を変えてるのかもしれないし、どこかに溜まって新たなフィールドを作っているのかもしれない。
なんだか脈絡の乏しい話になってしまっているけれど、たとえば「祭り」の起源が原始宗教的な儀式にあったとしても、その一方で「祭り」は1年間にフラストレートした村人のエネルギーの発散場という側面もある。民が暴力に傾かないためであろうか。なんだか科学の発展で自然の猛威を抑えたり、さまざまな規制や概念が人を縛るこのフラストレーション状態こそが、「暴発前夜」というか、良いも悪いも「祭りのまえ」という気がしてならない。
*
午後10時30分。今日の日記はこれで終わりかとくつろいでいたところへ驚愕のニュースが飛び込んだ。まずN.Yのダウンタウンにあるworld trade centerのビル1・70階付近に双発のジェット機が突っ込み、爆発炎上した。その20分後、ビル2の60階付近に新たな航空機が突っ込んだ。その映像は二本の巨大な煙突である。
しばらくしてWashington D.CにあるPENTAGON付近が炎上した。N.Yの惨事から1時間に満たない間である。ブッシュ大統領は、「明らかにアメリカに対するテロ行為である」とし捜査と救助をオーダーした。このオーダーの直後にペンタゴンの惨劇があった。
W.T.Cに突っ込んだ航空機は2機ともハイジャックされたボストン発のアメリカン航空機である。二箇所の同時テロが発生した直後、アブダビのTV局はD.F.L.P(パレスチナ解放民主戦線)の犯行という声明をだした。が、しばらくしてD.F.L.Pのスポークス・マンはこれを否定する声明を出した。
ほどなくW.T.Cが倒壊した。最初はビル2。しばらくしてビル1。N.Yのランドスケープから有名な二本の高層ビルが消えた瞬間である。PENTAGONの炎上は西側のヘリポートに航空機が突っ込んだもので、その後、新たな爆発が続いた。またこの時間に呼応するようにペンシルバニア西部にボーイング大型機が墜落した。連邦議会議事堂(CAPITOL・HILL)の近辺でも爆発が起きた。また国務省付近の車が爆発した。
WashingtonD.Cは最高度の警戒態勢にはいり、今後も民間航空機をハイジャックした攻撃をかけられる可能性があるとし、F14を発進、警戒にはいった。合衆国内の全空港は閉鎖された。P.L.O(パレスチナ解放機構)のアラファト議長は即座に会見し合衆国および国民に対し遺憾の意を表した。
F.B.I連邦捜査局はN.YおよびWasingtonD.Cに対する行為を同時テロと位置付け捜査中であるのと同時に、国民に最大限の警戒をとるよう声明を出した。またアメリカCBSの情報によると、11日現在、11機の航空機がハイジャックされ、うち4機が未だ消息不明ということである。
9・12 新たな敵
トム・クランシー著「合衆国崩壊」は連邦議事堂にハイジャックされた日本航空機が突っ込み、その惨事によって大統領が死亡するくだりから始まる。今回、未だつづくこの同時テロの危機は、小説の迫力をはるかに凌駕する規模と犠牲を合衆国に強いている。パウエル国務長官は、「今われわれは未曾有の悲劇に襲われているが、この事件がアメリカの本質に影響を与えることはない」という誇り高いコメントを出している。
日本政府は、「極めて卑劣かつ言語道断の暴挙であり、到底許し難い行為である」との声明を発表。内閣情報センターの設置、官房連絡室の設置、官房対策室の設置と環境を整え、安全保障会議が本日開かれる。合衆国の厄災は日本のそれでもある。が、プレスからの「日本の空港は閉鎖するか?」という質問に対し、福田官房長官は、「現段階ではその必要性はない」と答えた。
テロリズムは匿名の戦争行為である。精神と行為の両面において卑劣極まりない。戦争自体けして支持できないがそれを上回る悪である。「祭りのまえ」に「フラストレートしたエネルギーの行方」について書いた直後の出来事だったのでさすがに驚いたものの、この出来事はまだ序曲に過ぎないように思われる。
ブッシュ大統領は、ルイジアナ州の空軍基地からアメリカの政府機能の確保を指示し、世界中のアメリカ軍に厳戒態勢を布いた。また「今回の事件は、アメリカの自由そのものが攻撃を受けたのであり、われわれはこれをけして許さないだろう」という声明を出した。
このような合衆国本土に対する直接攻撃は僕の知る限り初めである。あるいは民間の建築物が民間の航空機によって攻撃されるのも初めてである。極めて稀な出来事が現実に起こっている。日本で「有事」とは、すなわち「戦争行為」をさすものであるが、言葉の起源から考えて今アメリカで起こっていることは「有事」ではないだろうか。
過去一連のオウム真理教によるテロリズムを引き合いに出すにはあまりに規模が異なるものの、この当時、宗教法人による無差別大量殺人という事実は、人々を惨殺したばかりでなく、これまでの犯罪基準そのものを破壊した意味でモラルの変容を示唆していた。今回起こった合衆国の悲劇の背景にも、同様の犯罪基準、あるいは戦争基準、あるいは破壊的な悪に行動する際の個人の基準そのものの変貌を感じる。それは角度を変えてみれば、悪の基準が変わっただけでなく、善の基準も変質しはじめているのかと察することもできる。
大統領が「自由に対する攻撃」と位置付けた今回のテロリズムも、行う側からすれば「憎きアメリカへの当然の報復」なのかも知れない。どのようなことを信じるのかも自由だし、信じないのも自由である。信じるものが違うことを認め合うのも自由である。しかしながらその自由の意味を理解しない時、自分の信じるものへの執着が他者との衝突へと向かわせる。これはアメリカの自由社会が冒されたのではなく「世界の人権に対する攻撃」なのではないだろうか。自由を支持する民族にとっても、支持しない民族にとっても人権は平等である。
自由という概念は善を生み出すのと同時に悪の温床にもなりうる。しかしながら「人権至上」という概念に対しては、いかなる宗教・イデオロギーも駆逐が困難である。
おそらく、「フラストレートしたエネルギーの行方」とは、これまでの自由社会のメソッドでは解決しきれなかった憤懣が、「人権に対する攻撃」という形に変質して顕われているのだと感じられる。これは自由主義というイデオロギーに対する攻撃という建前をかくれみのにした、もっとも許し難いモラルの出現なのではないだろうか。僕はこの「人権に対する攻撃勢力」こそが、新たに世界中の人の心に出現しつつある、もっとも恐ろしく根深い敵なのだと思わざるを得ない。
*
偶然にも撮影担当のフォトグラファーはN.Y在住の人物で、「もしかすると帰れないかもしれない」と言っていた。手元にあった自分の写真集の中には、自宅のアパルトマンから観えるworld trade centerの夜景があった。10月には自分もN.Yを訪れるスケジュールである。が、これも現段階では消えたも同然である。空港閉鎖は解かれるかもしれないが、とてもN.Yでイメージ撮影をする気にならない。あるいは撮影するとすればドキュメンタリーだろう。しかも家族も伴うつもりであったから現実的な選択とは言い難い。しかしこの許し難い、歴史的な暴挙の後をこの眼に焼き付けたいという願望も確かにある。
木村拓也君との撮影だった。彼もこの事件に触れ、「自分の中の大切なものを傷つけられた気がした」とコメントした。僕も同感した。一体この憤りをどのように解決したら良いのだろう。何千マイルも隔てた国の人間ですらこのように感じるのである。果たしてN.Y市民や合衆国民の悲しみと怒りはいかほどの深さなのだろう。彼はまた、「ニュースを観ていたら、N.Yの攻撃を喜ぶパレスチナの子供たちの姿があった。なんて恐ろしいことだろうと思ったよ」とも語った。本当にその通りだ。だがそのような反米感情になることも原則的にはブッシュの言う「自由」と同質なのである。そこに自由の難しさがある。「子供たちがあんな風に喜ぶ事情に僕らはけして立ち入ることができないけれど、少なくともあのテロリストたちは主義のために人権を侵した。それが本当に重い罪なんだろうね」と答え、悲しい気持ちになった。この惨事の全貌は未だ不明だが、数千人の犠牲者を数えることになるそうである。
9・13 UNTITLED
まったくもって憂鬱な日が続く。深夜までニュースを見てしまったので少し寝不足気味だ。早朝から紀香さんのヘアカラーのディレクションの為にYOKOさんの店に行く。惨事が起こってから初めて会う。紀香さんの友人もN.Yに旅立ったばかりで、未だ連絡がつかないそうだ。「こんな事件があるとどんな気持ちで仕事をしたらいいのかわからないわ」と彼女は語った。「本当だよね。一生懸命気持ちを高めるんだけど、あの衝撃的な映像が脳裏をよぎっちゃって、また一瞬萎えちゃうんだよね」と僕も答えた。
正午、横浜のスタジオへ行く。KDDIのCM撮りである。衣装の北村さんが、「NATOもどうしてアメリカに呼応して反撃に協力を惜しまないなんて言うのかしらね・・・」と言った。普段無口な浅野忠信君も、「あれはヤバイっすよね」とポツリ言った。「なんだかキリスト教対イスラム教の様相ですよね」と僕も言った。撮影自体はスピーディに進んだものの現場がとりたてて明るい空気であったわけではなかった。
北村道子さんは僕にとってとてもスペシャルな人である。映画「双生児」でもご一緒した。知り合ったきっかけはビヨークの時と同様に写真家の高橋恭二さんの紹介だった。その意味では無論、高橋さんもスペシャルで、三人で「マルコ・ポーロ」という雑誌の表紙を作ったのが北村さんとの始まりである。高橋さんとは、たしか「キューティ」だったような気がする。もう十年くらい以前のことかもしれない。
北村さんは一種シャーマンである。理屈は通らない。もちろん自分なりの理論を持っていることは感じられるのだけれども、彼女の口から発せられる言語はけしてロジカルではない。ましてや衣装やリアリゼーションの段階では、人に感じることだけを要求する。またそれを感じ取ることができた時の喜びは、他の衣装家と一線を画す次元である。しかも正確には、彼女は衣装を作るけれども、操作しているのは全体的なヴィジュアルそのものである。その部分が北村さんを北村さんたらしめているのであり、それを理解しない人物には北村さんの国宝級の価値を活用することができない。しかし彼女は社会的に創作上のステータスを穫得もしているので、その存在理由や作家性よりも名前に近づく人もある。そんな時、密かに傷ついてる姿も何度かみたが、そんな状況でも闘うことを忘れない。ある意味、北村さんは闘士である。
浅野君とも長い付き合いだ。きっかけも思い出せないくらいである。けれどいつも僕にとって新鮮な人物である。どうしてだろうと思うのだけれどよく分からない。しかし確かに言えることは、彼は自分のやることのみに100%の責任を負っているということかもしれない。だからまわりの状況に一切流されることがない。ただの一度も彼のそのような姿を見たことがない。だから人に自分の主義を押し付けたりもしない。もちろんいろいろな感想を自分のなかに持っているのだろうけれど、それが彼にとって重要な影を落とさない。その態度や感覚は、少なくとも僕にとってはとてもニュートラルな感じがして居心地がいい。素晴らしいアーティストの資質なのだと感じられる。彼の演技や絵画や音楽に対する姿勢からもそのような平等さを汲み取ることができる。
春日谷さんに連絡を取る。すると徹夜でスクリプトを書いていたと言う。アップを済ませたからサイトの動きを見てくれと言う。このダイアリーが人の目にふれているということは、その作業も無事終わったということだが、現段階では幾つかの変更点が出た。明日その作業に入る。それも含め自分なりにチエック項目を書き出したら26出た。しかし春日谷さんの努力は涙ぐましいものがあっただろうと察することが出来る。膨大な情報量を動作とリンクさせる作業とそれに伴うバグ潰しは人格を破壊するのに容易な分量である。「今日は、寝てくれよ」と思わず言った。実はそのやさしさめいた言葉は、「明日は突っ走るからね」の反語なのだけれど。
そう言えば最近ジムに行ってない。体を鍛えるなんて昔の自分には存在しない観念だったけれど、テニスをやるようになってから自分の筋力と持続性の低さに呆れ、意地から入会した。テニスはフォトグラファーの設楽さんに勧められて入ったらすっかりのめり込み、今では気分はラフターである。体を鍛えることに何故か恥ずかしさを感じていたのだけれど、それは明らかに偏見と傲慢であると最近知った。「文武両道」とはよく言ったもので体ばかりを鍛えても底は浅く、文字ばかり追っても役立たない。精神と体が互いをほどよく支えあって、よい生活、よい表現ができるのだなとつくづく感じている。それがここ最近のサイト作りのホフク前進と、僕にしてみると過密な仕事にエクスキューズしてすっかり滞ってしまった。
設楽茂男さんと言えば、僕のベストフレンドである。僕は友達が少ないけれど、彼は友達である。何が友達かと問われると困るけれど、それが友達である。N.Yも彼と一緒の予定だった。が、こんな出来事に見舞われるなんて思いもよらなかった。世界中の人々にとっても思いもよらない出来事なのだから、むしろこの出来事がこのようなタイミングでリアルな意味を持って自分に接していることにオリジナルな価値を見出すことも出来る。設楽さんはきっとあの愚かしい人間の破壊のあとを写真に収めたいのだろうなぁ。夏、下田に誘われたけど、こちらは軽井沢でテニスだった。なんだかベタな行動だけど時折そんなことをしてみたくなる。なのについでに草津まで足を展ばしてみたくもなりスパにはいったはいいけれど強アルカリに顔がまだらに赤くなった。やはり自分の詰めはスノッブでない。で、そのスノッブでないエスプリを設楽さんとは分かち合え、笑い飛ばすことが出来る。僕の生活に設楽さんが欠けたら、随分味気ないものになるだろう。
今夜は相米監督の通夜だそうで、通夜どころか、撮影中に北村さんが、「相米さんも逝っちゃって云々・・・」ていうセンテンスを何気なく耳にして、そんなこと夢にも知らなかった僕は驚愕した。映画「風花」は傑作で、釜山の映画祭にも同行した。本編を担当したのではないが、浅野君と小泉今日子さんのプロモーションのお手伝いのためだった。仕事が終わり偶然にも食事の店が重なって、実によく飲む人だった。肺癌だそうである。心からご冥福を祈ります。
9・14 平和と健康
朝、自由が丘で村上里佳子さんとミーティング。彼女とは17歳くらいのころからの付き合いで、なんだか兄弟みたいな感覚である。M&Nworksという子供服を中心に据えたブランドも運営されていて、今回そのビジネス展開の一端として子供専門のヘアサロンのプロデュースを始める。そこで相談を受け、僕もスーパーヴァイザーとして参加することになった。そもそもその子供のヘアサロンは以前からあって盛況をはくしていたのだが、オーナーの方針で売りに出された。とてもドライな話だがビジネス上ではよくあることである。その話をリカコが偶然聞いて買い取ったのである。
M&Nworksのグループの一員として完全リニューアルするのを来年の春に設定し、それまで現行の体制で望む。スタッフも着々と集まりつつあり、現段階は非常に順調な滑り出しである(常時スタッフ募集中なので、くわしくは本サイトの<TOPIC>の<RIKAKO MURAKAMI>を参照してください)。
彼女は、おそらくみなさんの抱いているイメージと本人のパーソナリティのずれが非常に少ない女性なのではと思います。とてもさっぱりしていてクレバーです。クレバーと言うと理知的な感じが前に出ますが、動物的な勘が異常に発達しています。むしろその勘によって進む道を決めていて、しかも「自分らしく生きる」ということのためにはどのような犠牲もいといません。ですので例え仕事やタスクについてまわりの人間から「重要だよ」とサジェストされたとしても、「自分らしく生きる」に合っていなければはっきりとNOを出します。
これは出来そうで出来ないことで、彼女に対し僕が尊敬している部分のひとつです。しかも「自分らしく生きる」の中心には「家族の幸せ」が据えられています。だからこそM&Nworksというブランドを推進しているのでしょう。僕が思うにM&Nworksのコンセプトは、「子供の生活を高める」ということです。どうかみなさん彼女の活動を支援してくださいね。
春日谷さん宅へ移動。今日も地獄のサイト作りである。このくらいの地獄は世界の危機に比べたら無いも等しいが、そんなクライシスよりも日常生活のハードルに眼が行くのが一般人の凡庸さと特権でもある。しかしつくづくその凡庸なる一般人としての特権に思いをはせずにはいられない。損なってはじめて有り難味がわかると言う意味で、平和と健康は似ている。一般人が日常生活をつまらないものだ、などと過ごすことが出来ることこそ、一般人の特権的な「平和と健康」感覚である。それが失われようとする時、一般人は自分の置かれてきた境遇の幸せと現在の無力を味わう。できれば幸せである内に「平和と健康」について自覚したいものだなどと、コンピューターに向き合いながら思ったりした。
9・15 漁夫のボス
ニュースは惨劇一色である。しかし今の視点は、アメリカがいつ報復行動をとるかという部分に集約されている。戦争が起きるということはすでに前提の風潮だ。アフガニスタンは態度を硬化させ、「アメリカを支持するものはたとえイスラム教国、隣国であろう攻撃する。これは聖戦である。イスラム教徒よ死を恐れずに立ち上がろう」とパキスタンに牽制をかける。
きっとアメリカはパキスタンの協力を得られなくともアフガニスタンを攻撃するだろう。協力しないというコミットをした途端、パキスタンも叩くかもしれない。世界中はアメリカの怒りが正当なものだと感じている。またそれに疑問を抱いたとしても止める術がないことも感じている。おそらくそれを痛いほど感じているのはパキスタンだろう。
インドは漁夫の利である。パキスタンがアメリカに加担すれば、アフガニスタンから攻撃され、協力しなければアメリカに叩かれる。長いパキスタンとの闘争に大きく水をあけられるかもしれない。
アフガニスタンは国が滅ぶことも念頭に入れなければならないだろう。旧ソビエト軍も占領できなかった山岳地帯の戦力をアメリカが叩くとすれば、最悪、戦術核までオプションにはいっているだろう。空爆、陸軍投入、特殊工作、政府転覆で戦いが終わるとは思わない。これは国家対国家の戦争ではない。民主主義対テロリズムという図式が地域を限定し難いゆえに、広範囲の壊滅に最終オプションを持つ必要があるからである。
なんということだろう。素人の僕が想像してもこの戦争の行く末が恐ろしい。2000年紀が終わりを告げ、3000年紀の第一歩が戦いから始まる。これは確実に始まる。しかも世界を巻き込む。聖書にある、アルマゲドンを思い出す。この戦いによって選ばれた者たちが後の1,000年紀を生きるのだそうだ。もしかすると本当にそうかもしれない。
これは宗教戦争である。自由主義は信教の自由を認めているしアメリカもそれに寛容である。しかしキリスト教国家が先導して構築してきたものが自由主義であり、資本主義社会である。それに対し、非常に先鋭化した行動基準を持つとは言え、イスラム原理主義者の無謀な行動はイスラム国家の心根を代弁する部分を持っている。
これは心と心の戦いである。同じ地球上にあって同じ時間軸を過ごしながらいかんともし難く生じてしまったあらゆる差異が、この不幸な2極を衝突に導いているのだろう。片側のシンボルが合衆国のブッシュ。片側のシンボルがイスラムのビンラディン。すくなくとも僕にとってはどちらも不吉においては平等である。
この戦争で大局的に利益を得るのは中国だろう。漁夫のボスのようなものだ。NATO諸国が参戦すれば経済的に疲弊する。しなければアメリカと関係悪化する。当の合衆国は戦後10年経済打撃を回復できない。日本の現況は言うに及ばず、イスラム諸国もただでは済まない。その内にあってロシアは協力というスローガンのもと傍観を決め自国の打撃を最小限に食い止める。そもそもこの国にまだ力はない。その中で唯一、政治・経済・外交・軍事のプレゼンス拡大のきっかけにし得るのはテロ反撃の心配の少ない中国である。
まだ起きてもいない戦争について飛躍も甚だしいが、中国がアメリカに変わり超大国化する世界構造などとてもじゃないが見たくもない。嫌な上司に使われるようなものだ。などと言うとお前は差別主義者かなどと叱られそうだが、僕は天安門事件を忘れない。あのような人権意識の国家が世界のリーダーになったら地球の不幸である。すくなくとも問題は抱えているがアメリカの進化の方がはるか未来を進んでいる。
9・17 友人への返信
聖書ではキリスト生誕後2000年でハルマゲドンが起こり、その戦いに勝ったものが後の1000年を生きるのだそうです。
今回の惨劇は自由主義対テロリズムという単純な構図ではなく、人間の命の尊厳、すなわち人権に対する捉え方の違いが極度な形で衝突したのではないでしょうか。
そのような意味でキリスト教対イスラム原理主義という宗教戦争の色彩が濃いような気がします。僕らはある意味、ブッシュの言う通り、「自由が攻撃された」のかも知れませんが、実は「人権を破壊された」のだと思います。
どのような価値観を持っていても、それらは命を尊ぶためにあるものだと思います。しかしこの戦争前夜のみならずドメスティックには、殺伐とした暴力がそこかしこに顔をのぞかせています。
僕はこの戦争が代表しているものは、「国と国」「主義と主義」「宗教と宗教」というような概念ではなく、心のうちで衝突する「愛と悪」なのではと思えてなりません。なので仮にアフガニスタンで戦争が始まったとしても、それは単に目に見える形では、ということに過ぎず、自分の生活の身近なところでもそのような「愛と悪」の宣戦布告がなされたのだと思います。
僕らは実生活を送っているので、たとえば今回の事件でNYから帰国する人や、ロケがとりやめになったり、さまざまな影響を受けてしまいます。けれどもこの戦いの実態と本性を見極めながら、心を強く淡々と生活したいなと感じています。
また近々会いましょう。最近ずっとホームページ制作に追われてしまっているのですが、とにかく会いたいものですね。
柘植伊佐夫
* ****@**********jp
9・21 歪んだモチベート
雨。山口きらら博へ行く予定であったが必要がなくなりMEDIAN制作に変更する。ここ二日間撮影が空いたので延べ24時間を当てる。おかげで随分と全貌が見えて来た。当初9月15日開設をメドに進めていたが、どうやらこの分で行くと10月1日辺りのスタートになりそうだ。インターフェースやそれぞれのメイン画面、コンテンツがそろって来るとそれらしい雰囲気を醸し出し、ここまで来たかと感慨もひとしおである。と同時によくこんなに作りつづけたものだと呆れたりもした。
毎週金曜日夕はテニス・スクールである。が今日も振り替えた。いつもオープン・コートを使用しているのでいずれにしても今日は雨で流れた。なのでもう一回振り返ることができる。ラッキーと言えば言えるが運動不足に変わりはない。
飲みにも出ていない。これにトリツカレてからというもの酒の類から遠ざかった。そう云う部分では健康を取り戻すのに一役も買っている。運動不足と内臓復帰を秤にかけてWEB制作は体のために良いのか悪いのか・・・。修行のような日々である。
春日谷さんが、「みんな戦争への覚悟や理解が甘いんじゃないかなぁ」とふと漏らした。「だって向こう側、多分やる気満々でしょう。しかも僕が敵だったら日本を必ず叩こうと思いますよ。今回の件でNYの証券市場がたがたで暴落に近いでしょ、もし日本叩かれたら世界経済にとっても致命打ですよ。それに戦略的に見たって中東への補給経路の要ですよ。野党とか、今早急に戦争支援したら憲法上未来に禍根を残すっていつもの感じで言ったりしてるけど、国が残ってればねって言いたいですよ」
彼はあまりこの手の話をしない人物である。僕も答えた。「でもビンラディンて資本主義が生み出したフランケンシュタインって言われてるよね。生まれはサウジの富豪で教育も受けてる。資金をストックで拡大させて資産は7500億とも言われてる。それこそ現代的な資本主義スキルでしょ。それがテロの軍資金となってアメリカを攻撃する。民主主義の危機だと言ってアメリカは反撃しようとしてるけど、自由資本主義って民主主義のコインの裏でしょ?だからこのテロの可能性はそもそも民主主義そのものがはらんでる矛盾の量とイコールなんじゃないの?オウムが生まれた背景だって近いものがある。民主主義の矛盾に何か歪んだモチベートが作用した時にテロ化するって言うか」
「だからさ、どっちにしたって自由資本主義者同士の戦いなわけじゃない。ある戦士は<ジハードだぁ>とか信じたり、ある戦士は<限りない正義作戦だぁ>とか言ってるけれど、この戦争は経済を破壊するじゃない。するとそもそも資本に支えられている戦争なのに本末転倒な行動でしょ?」
「確かに、でもアメリカってメインランドを攻撃されたことないじゃない。そんな国が今まで日本やドイツやベトナムや中東を攻撃してたわけよ。それだけでもすごくリアルな戦争実感みたいなものが大衆の中には希薄だったわけで、そりゃ戦争経験者はいるだろうけど、戦場になったことはないわけで、そう云う意味でも今回の事件は戦いのモチベート200%という感じでしょ」
「けどさっき<民主主義の矛盾に何か歪んだモチベートが作用した時にテロ化する>って言ったじゃない?今回の戦争の最大のテーマってその辺にあるんじゃないかなぁ。だからその<歪んだモチベート>に対する戦いって言うかさ」
「その<歪んだモチベート>って何なんだろうね。一宗教に限定するのってちょっと短絡的だよね。主義や文明に拡げるのも何か実感がないっていうかピンと来ないんだよねぇ」
「もしかすると<狂信>ってことなんじゃないの?固執とか偏執とかの最強バージョンというかさ。何か・・・まぁ宗教でも主義でも、そうだな身近なところでは自分の好みとか趣味とか、何でもいいんだけど、なんの疑いも差し挟まない<狂信>状態って善悪の境界なんて軽々と越えちゃうだろうし、オーセンティックな意味での検証する態度も消えちゃうでしょ。一種、心が完全に縛られた状態っていうか。そう云う意味で<狂信>することだって自由主義は何にも否定しないけれど、心の面から見れば自由じゃないっていうか。だから今回この戦争が闘おうとしている<歪んだモチベート>の正体は人間が誰しも持っている<狂信>的な面なのかもね」
「だからさ、人間誰しも<狂信>的な面をそなえてるとしたらさ、アメリカ、大丈夫かね?」
9・22 命と愛
21世紀初の戦争が自由資本主義の矛盾に「狂信」という歪んだモチベートが作用して行われようとしている、と書いた。そしてその「狂信」はどのような人の心にも潜んでいる、とも書いた。「狂信」にとってイスラム原理主義者もアメリカ市民もない。故にテロリストの資格にいかなる差別もない。宗教も性別も国籍も年齢もどのような政治理念を持っていようがテロリストの資格をもっている。そこに必要なのは、ただ圧倒的な強度を持った「狂信」である。しかもその「狂信」は日常的のそれではない。テロリズムを正当化する「狂信」の理念は、「生命の尊厳」を超える。この部分がこの戦いの本質を知る上で重要なのではないだろうか。
われわれが日常生活を送る時、何かを信じているような気がする。信じていることを自覚していない時も多々あるが、たとえば未知なる自分のポテンシャルや、それを守る環境の確かさや、その全体としての世界国家や、大きな意味ではそれらを形づくる自然を生み出した宇宙、そしてその先にある究極の叡智。おそらく宗教はこの次元を「神」と呼んでいるのかも知れないが、それら書き連ねきれない感情や事実を含め、感覚的に何かを信じているように思う。そして例外なく、その「信じる」という対象は「命」によって裏付けられている。
まず「命」ありきである。われわれは命を持たされた。それがどのような発生プロセスによってかを完全に知る術はない。また命の起動システムがいかなるかも未知である。また命の存在理由こそ不可知である。ただわれわれは命を持たされた。そしてその「命」はあらゆる根源であり最高度のプライオリティである。もしかすれば命を起動させている粒子は、電気信号でも化学物質でもなく「愛」なのかも知れないと感じられる。「命」を支えているものが「愛」なのだとすれば、これこそ信仰のヒエラルキーの最上級と思える。
狂信者に愛がないとは思わない。狂信者は自分を愛の無い狂信者だと自覚していないとすら思える。しかし「命を冒す狂信」は「愛の真逆の存在」である。おそらくその存在の名称が「悪」である。前記したように「信じる対象には例外なく命の裏付け」がある。それが正しいとすれば「命を冒す行為は信じる対象の破壊」と言える。と同時に「愛の否定」に到達する。これこそが「悪の目的」であり、すべての行動基準なのではないだろうか。
われわれがこの戦いで勝ち抜かなければならない価値基準は、民主主義でも自由主義でも資本主義でもない。ただひとつ「愛」である。命を尊ぶ愛の基準である。それを冒す原理を行使するものはテロリストであろうがアメリカであろうがNATOであろうが日本であろうが、滅びる。これはある意味本当にハルマゲドンかも知れない。
昼近く起きる。TVでは`A TRIBUTE TO HEROES’がLAから中継されている。自宅の窓からふと目を転じると白亜の建物の前に集う人々が結婚式を祝っている。NEWSではEUから「アメリカの報復には正当性がある」というコミュニケが発表されている。アフガニスタンの首都カブールでは子供の4人にひとりは5歳になる前に死亡すると伝えられる。タリバーン政権の支持率は低下する一方で、カブールのある女性は「わたしたちのベールの下には涙がある」と記者に訴える。わずかな人数の強大な悪が、他国ばかりか自国も苦しめる。それはわが国ですら変わりないが、すでにアフガニスタンは命の存続に抵触している。アメリカの報復にどのような正当性があろうと、WTCの攻撃と同じ分だけ現在のカブールの惨状は報道されてはいない。超大国と第三国の違いは、まさにインフォメーションやインテリジェンスの量にある。
インフォメーションは単なる情報だが、インテリジェンスはそれが体系化されている。それらの総体量が多いほど判断の正確性のバックアップになるのは言うまでもない。ほとんどの問題は情報量によって解決の糸口を見つけられる。その後の実務レベルの手順と方法すら情報によって左右される。「狂信」という観念も事前の情報量が多かったら発生するかどうか怪しい代物である。
情報は高価である。郵便より電話の方がリアルで迅速なのは間違いない。電話よりインターネットの方がより広範な情報を得られる。口伝よりラジオ、ラジオより画像、本も古典から現代文学、雑誌の類と、それらは質の高低を問わずインフォメーション・ソースとしての価値がある。それをインテリジェンス化するのは個人の力である。インフォメーション群は資本に支えられており、バジェットと情報量は比例する。国家予算と情報量も比例し個人もその洗礼を受ける。
果たしてアメリカに比べ国家予算の低いアフガニスタンはどれだけの情報を支えに自らの行動基準としているのだろうか。あるいはアフガニスタンに限らず、テロリズムの温床はどのような情報量をもとにモラルを形成しているのだろうか。また想像し得る許せざる元凶であり悲劇的存在は、そのような情報の少なさを利用するテロリズムのリーダーである。テロリズムは暴力革命主義、または恐怖主義である。それらはあまりに狂信的である。潤沢な情報に恵まれ事象の判断を公平に見極める態度の決定的な欠落である。
恐怖や不安は情報と行動によってのみ解決される。狂信を打破するものは圧倒的なインテリジェンスしかない。人間は光の中を歩まねばならない。それはどのような不可視な局面に対しても知り得るすべての情報と、恐怖に打ち勝つ精神と、ダイナミックな行動力を発揮しようとする姿勢に裏付けられる。すべての進化はこのどの要素も欠けていない。11.sep.2001を境に世界は新しい領域に足を踏み入れ、パラダイム・シフトが始まろうとしている。
25・9 H先生
昼少し前、H先生に会う。先生の手料理をいただきながら、「アイルランド人は世界の宝って呼ばれてるの知ってますか?」と問われて、僕はまったくの初耳で驚いた。「もしかするとアメリカ人だけがそう言ってるのかも知れないけど、あの厳しい風土に育てられる質実で忍耐強く、それでいて勇敢な人格やそのDNAが、世界にとって宝だと言うんですね」
「ケネディやレーガンがそうであったからという面もあるのかも知れませんが、何かよい人間が出来上がるためには、どのような環境が必要なのかというようなことを考えさせられますね」
「厳しい環境はある面で人格形成上必要なのだと思わざるを得ませんが、例えば現在の日本で、自然風土から来る厳しさを教育のために求めていこうとする思想はあまりみうけられませんし、自然に限らず教育環境に厳しさを求めると考えるのも一種古典的な手法になりつつありますよね。そうなると各家庭のポリシーをいよいよ問われてしまう訳で、しいては他の家庭や社会とどのようにバランスを取るべきなのかという話にも至ります」
「今回NYで起こった事件を見ますと行われたことの非道さは弁解の余地がありません。しかしここから学べるのは、信じるものを持つ者の行動原理の強大さではないでしょうか。アメリカ人は自分たちの自由を強く信じています。一方テロリストたちは私たちには理解しかねますが何か信じるものがあっての行動だとは察しがつきます。私もイスラム圏に旅をします。その折、あの広大な砂漠と、その地平から突然立ち上がる巨大な青空にろうろうとしたコーランの声が響くのを聴くと、たしかにこの地にそぐうのはキリストでも仏陀でもないだろうと感じられるのです。それを一概に文明の衝突のようにくくれはしませんが、詰まるところ信じるものの違いが環境の違いと遠からぬ仲だとも思えるのです」
「果たして今、日本人は何を信じているのでしょうね。べつに信じる対象が宗教に限られるわけではありません。十数年前にこの国はお金を信じていました。おそらくそれは敗戦の経験が世代を経てリバウンドした結果でしょう。しかしその信仰が脆く浅はかなものだとようやく知った。それも随分の犠牲を払ってです。世の中はアメリカ的な消費主義の矛盾に気がつき始めてはいるようですが、その次にあるべき信じる対象を失っている現在です」
「先日、私のコンピューターが壊れまして中のデータが失われました。もちろん大切なものが入っていたわけですが、しかしそれによって私の精神は逆にクリアになったような気分もあるのです。何かモノに縛られてる状態では失う恐怖に支配されているような部分もありまして、このような不測の事態が自分に学ばせてくれたわけです」
「失うことを恐れず、むしろどんどん自分のまわりをゼロ化して行くという作業は、新しい価値観を生み出す上で重要なことなのでしょう。これは必要だと思っているようなことでも、捨ててみると思い込みであったことに気付く。そんなことを繰り返すうちに、新たに信ずるべきことの輪郭くらいは見えて来るのかもしれませんね」
9・26 スチームサウナ
久しぶりにジムへ行くと筋力が落ちていた。ついでにフロントやらロビーまわりが微妙に模様替えされていて時の流れを感じた。僭越ではあるが自分は以前の方が好きだった。能率的な配置だった。今はそれに若干の媚びが加わった。これも社会の情勢か。
しかしディテールはともかく相変わらずの和める空気にほっとした。ほっとするのもつかの間次の仕事が待っていたのでそそくさとメニューをこなす。が、しっかりとスチームサウナに二度はいる。僕はこれが大好きなのだ。ドライよりもスチーム派である。ドライの方がメンタルがよりクリアになる気がするが、自分はあのスチームの、ぼわんという感じにさらされるのがいい。理由はわからない。
スチームにはいった日は上機嫌である。これも理由はわからない。その日の運勢すら上向く気がする。実際機嫌がいいのだから少々のことも許せる。また少々のことにもへこたれない。こんな好条件が揃うのだから運勢に悪く響くはずがない。まぁ、そもそも運勢が下向いてる時には悪条件が重なってスチームに行くことすら出来ないのかもしれないのだから、スチームサウナのポテンシャルと運勢の上下を直結させること自体に無理はあるが。
と調子に乗ってしまうくらい、今日は何となくいい日だ。と言って特別なことがあったわけではない。しかし帰宅すると知人の妹さんから手紙が来ていて、A画廊の作品記録集が良い出来で、私も協力させてもらったから進呈します、と小冊子が同封されていたり、また知人からの写真添付ありのメイルの内容が適度に心温まったり、そう言えば今日の撮影も何だか不思議な感触な中に新しいファミリアな感じがあったり、そしてちょうどこの夜放映されたドラマがあって、その主演の方をデザインしたので観ていたら、デザインも良いがドラマ自体がとても良く、感動したり。数えてみれば結構幸せ者だ。
調子の悪い時はこんな風に気付きもしない。気付かないどころか文句すら言う。しかもわざわざ探し出して言ってるふしすらある。幼い頃、たしか小学生くらいだっただろうか、「本当に自分ほどフェアな人間はいない」と思っていた。思っていたというより、確実にそう思った瞬間があったのを覚えている。いまやそのような恐れを知らない傲慢さは自分の中に微塵もない。ある瞬間瞬間に自分のアンフェアに反省ばかりしている。あの子供のころの確信は歳月を経るごとに疑念へと変わり、現在ではなんとかフェアであるようにと気を確かに持つのに必死だ。
やはり幼い頃、河原に父と遊びに行った。「かけっこしよう」と父が言った。多分5歳くらいの頃だったと思う。僕は父に絶対負けないと思っていた。何の根拠もなく本当に勝てると信じていた。「よーい、ドン」で、もちろん結果は言うまでもない。これが自分の初の挫折であった。フェアの危機はかけっこの挫折に似ている。実は今でも少しはあの小学生のころのフェアへの確信を忘れないでいるのと同時に、あのかけっこの挫折から学んだ、無知な者特有の自信が人を敗北へ導くという教訓が、大人の自分の中で葛藤するのである。
とにもかくにもスチームサウナはご機嫌である。この事実に変化はない。
10・1 UNTITLED
午前11時。山口宇部空港。昼過ぎのフライトにかかわらず、ホテルのチェック・アウト後、行き場所を探すには時間も情報も足りない状況に陥り、随分と早いが空港で暇つぶしを決めた。カウンターの搭乗手続きも始まっておらずフロアにあるカフェにはいる。
山口きらら博のメイン会場で行われる「やまぐち元気伝説」というイベントのヘア・メイクデザインをお受けしたのがおよそ4ヶ月前。1ヶ月でデザインとシステム、エデュケーションを終えて本番にはいった。博覧会は延べ250万人の来場を数え、内イベント会場に60万人が動員した。同時期に催された博覧会に比較すると数字だけでみればトップである。
それが昨日をもって終了した。ほっとしたのと同時に博覧会とは何だろうとも思った。おそらく地域振興、町おこしのようなものなのだろう。3ヶ月の間、数度この地を訪れただけでも、航空機、バス、タクシーら交通機関の使用頻度は大幅にあがり、ダイヤや就航本数自体大幅にアップした。
人びとのマインドにも変化が見られた。当初成功に懐疑的な雰囲気があったものの、日を重ねるごとに状況の活況に牽引されるように、人自体の雰囲気まで明るくなった。単純に経済効果の上昇が人のマインドを引き上げただけでなく、きらら博に対する成功の自覚がある種の誇りを生み出して来たような気がする。
さまざまなパビリオンや催しがあったが、自分にとってとりたてて興味深いものがあったわけではない。しかし、地域がひとつのきっかけを通して盛り上がる姿にはすがすがしさを覚える。地元阿地須町はただ自然があるばかりの変哲ない田舎である。博覧会が始まる前は、「こんな大風呂敷をひろげて、失敗したら町長は首くくりものだ」とまわりから言われていたとタクシーの運転手さんから聞いた。これで町長の首がつながったばかりか、太くなっただろう。
イベントは多くのボランティアによって運営された。他のパピリオンはほとんどがプロの集まりであったが、「やまぐち元気伝説」だけは企画・制作等のパッケージ面はプロで、運営の一部と出演者のほとんどをボランティアによった。非常に新しい試みであったし、それゆえの難問も多々出現したが、それゆえの感動の大きさを残した。
ボランティアとプロフェッショナルの共存は、もしかすると今後さまざまなカテゴリーの中で新しい地平を切り開くのかもしれない。今回のような博覧会だけでなく、ある一定以上のフレームの活動を行う場合、この共存の手法はモチベートの高まりやバジェットのダウンサイズという矛盾したテーマをクリアするのに適切である。おそらくこの方法で最大の問題はスキルと責任で、それさえ教育できたら素晴らしい可能性を秘めている。
意識と技術の統一を図るための教育。それがボランティアとプロフェッショナルを同じステージで括り、同じ目的を感動をもって達成するカギのような気がした。
10・4 UNTITLED
イスラエル発のロシア民間航空機が黒海の上空一万メートルで爆発した。アフガニスタンを巡る情勢が緊迫する中、各国はテロの可能性を懸念している。
アメリカはタリバーンに対する包囲を強め、イギリスも積極的に支援している。NATOもこれを支持し、フランスは後方支援を決定した。日本はテロ防止のための新法を制定しようとしている。自衛隊の権限の拡大を明記し後方支援に勢いを増す。
政治の世界を見れば、世界は戦争前夜である。しかし人民が戦争を望んでいるかは甚だ疑問である。9月11日の恐るべきテロから少しの時間を経て、人々は若干の冷静さを取り戻しつつあり、テロに対する報復が新たな報復を生み出すことに気付き始めた。
テロは犯罪である。本筋を捉えれば、もしビン・ラディーンがテロの犯人であるという証拠があるのであれば、当事国はそれを各国に提示し、彼を捕え、司法により裁くべきである。またそれを支援した団体があれば同様に処すのが筋である。そのために他国に対し行動するのは、戦争ではなく「警察行動」である。したがって今回の事件は戦争によってではなく、警察行動によって解決されなくてはならない。
アフガニスタンのタリバーン政権が充分な証拠ではないと、ビン・ラディーンをかくまうのも筋が違う。それが充分な証拠かどうかを決定するのはタリバーン政権ではなく当事国の司法であり、世界である。またアメリカの警察行動を侵略行為とすりかえて人々に聖戦を訴えるのは、対外的には主権主張をしながら国内的にはみずからの治安維持責任の欠如を宗教の衣に隠す、卑劣な二重基準の提示でしかない。
アメリカはビン・ラディーンを犯人だと言い、アフガニスタンは違うと言う。そしてタリバーンはテロに対する定義と態度を明確にしない。タリバーンがビン・ラディーンをかくまうのであれば、一国の政権としてテロに対する態度を表明し、自らの言動に大儀があるのであれば外交手続きに則り宣戦布告するべきである。
アフガニスタン・タリバーン政権はそれすらしない。犯罪も明確化せず、外交手続きによる戦争発動もしない。もしビン・ラディーンが今回の犯人であり、またタリバーンがそれを支援していたなら、アメリカに戦争規模の損害を与えながらその匿名性により正規の戦争を起こす権利を奪うことになる。
戦争は絶対に避けるべき選択肢だと思う。しかし間違ってならないのは、世界中のどの国家も、外交ルールに沿って戦争をする権利を持っている。それは単純な殺戮行為ではなく、基準のある最終的な外交手段である。このように緊迫した状況の中で、僕らは風潮に流されず、起こそうとしている行動が戦争なのか、警察行動なのか、またそもそも行動するべきなのか、国家として大儀はあるか、それが人道主義を冒していないか、をチェックしなければならないのだと思う。
10・8 開戦
午前1時45分。米CBSによるとアフガニスタンで米軍等による軍事行動が始まったと伝えた。
10・10 BC兵器
フロリダの新聞社で炭素菌感染者が2名出た。内1名は死亡した。炭素菌が自然感染することは極めて稀で、合衆国過去100年の間に18ケースしか発症例はなく、もっとも近年の事例でも25年前である。
炭素菌は発症の兆候が感冒に似ており原因を特定し難い。それでいて発症以降は致死率100%で、ワクチンが効くのは潜伏期間以前である。従って発見困難かつ対処困難な病原菌と言わざるを得ない。
この病原菌は土中や動物の糞に含まれ十余年の寿命を持つとされるが、培養されない限り自然界からの感染確率は極めて低い。しかし培養が容易であるために細菌兵器として長い研究の歴史を持つ。日本でも736部隊の前身であった組織が開発を試みていたとのことだ。
>フロリダの新聞社から数分の距離に、WTCへのハイジャック犯が訓練に通った飛行学校がある。
>同時多発テロから1ヶ月弱の出来事である。
>発症した2名は社に送られた同じ郵便に触れていた。
>炭素菌が自然感染するのは100年に18件の確率である。
>炭素菌はB兵器に使用される。
以上の項目だけでもFBIが「アメリカが生物兵器によって攻撃された」可能性を疑うのは至極当然である。一方、日本の生物・化学兵器に対するディフェンスはサリンの例を見るまでもなく非常に稚拙である。僕らは今や安心して公共の交通機関すら利用出来なくなりつつある。空ばかりでなく新幹線、地下鉄、バス、などは細菌の媒介に都合がいい。防衛庁はこのような有事へのプログラムが薄い。
10・12 想像力
9月11日で世界は変わったと言われている。果たしてそれがどのように変質したのか答えは未来に委ねるしかないかもしれないが、確かに言えることがある。それは「想像力の欠如」である。
僕らには想像力が必要である。夢やイメージは、抽象的にではなく具体的に人の行動を決定づける巨大な要素である。それを支えるのが想像力である。今回の事件がかかえる大きな罪のひとつに、世界中の人々の肯定的な想像力を傷つけたということが言えるかも知れない。
9月11日より前の、あの、あたかも平和であった世界は、それまでの世界中の人々の想像力の賜物であった。そこには貧困や病気や争いが今と変わらず存在していたが、世界が平和であるという認識について今よりも高いレベルにあった筈である。しかしそれは人口比で観たならわずかな数のテロリストによって恐怖や不安の攻撃にさらされて、その想像力を駆逐し始めている。
世界に起こっている悲劇は今も昔もひとつの時系列に属している。それを解決しなければならない責務は変わらない。人々を平和で幸福な世界に導く力は、コミュニケーションや支援だけではない。そもそもそれを正しく支えるのは肯定的な想像力である。
今、争い合う当事者やその国の指導者の想像力が肯定的かどうか、甚だ疑問を持たざるを得ない。
10・22 狂牛病
昔「ソイレント・グリーン」という映画があった。食料不足を解決する政府支給の食物<ソイレント・グリーン>の正体を追求すると安楽死した老人であった、という物語で、チャールトン・へストンが主演であったかと思う。最近の狂牛病の騒動をTVなどを通じてながめながら、どうやら原因は餌として用いられる牛の肉骨紛らしいと聞いて、ふと思い出した。
屠殺して残る牛の骨や肉を粉にしてふたたび餌として牛に与える。ちょっと聞いただけでもぞっとするが機関や業者からすれば資源の再利用なのだそうだ。しかし牛の肉骨粉を他の動物に与えても発症せず、ただ牛にのみ発症する。これを聞くと科学的な根拠以外にもモラルが実際的な力を持っているような気がしてならない。
人が人を食べるというカンニバリズムを人のモラルは許さない。普通の感覚を備えていればそんなことはしないだろうが、世の中レクター博士のような人物がいないとも限らない。しかしもしそのモラルを破るようなことが蔓延したら、もしかすると僕らも狂人病になるのかもしれない。
牛に対してならば許されるのだろうか。人に許されないことも、少なくとも仮に意思があったとしても大きな表示をせず、人に対して政治力を持たない動物であればモラルを加味した態度をとらなくとも許されるのだろうか。正直僕には判らない。僕らがおいしくいただく牛たちの受難は、同時にインモラルな仕打ちを強いる人へのささやかな抵抗のような気がしてならないのだが・・・。